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BLOG | コンサルタントは地獄の道づれ?

第21回−ひとり会議のススメ

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電線工場勤務時代から20年以上続いている習慣があります。「ひとり会議」です。

工場時代は工程管理システムの仕様案のまとめや、社内外プレゼンテーションのラフ作りのため、本社勤務時代はそれこそ全ての業務のため、独立・起業後は市場調査や技術コンサルタント案件のプロジェクト立案のため、ひとりで会議室に籠もり、ブツブツ言いながらホワイトボードにアタマの中を書きなぐっています。

スマホやタブレットが普及し、電子黒板などもある今は、もっとスマートな方法があるのかもしれませんが、今日現在でもやり方は変わらず。グシャグシャの文字で書いて、プリントアウトをしています。

ポイント…というほどではありませんが、二点ほど意識していることがあります。

ひとつは「必ずプリントアウトすること」。安いボードには印刷機能が付いていませんが、ボードに書いて記録に残さず、なんとなく出来た、わかった、解決したような気になってはイケマセン。
どんなにキタナイ文字でも、後日読解に苦労するようなグシャグシャっぷりでも、「成果物」を残すことが重要かと。出張先などでプリントが出来ない場合は、一言断ってから携帯で写真を撮らせてもらっています。

もうひとつは「アウトプットのイメージをマンガに書くこと」。提案書、調査報告書、説明資料等々、「A4ヨコでパワポで、まず一枚目はこのへんに見出し、左にダァーっと文章が来て、右に写真と円グラフが2点。二枚目は…」などと、内容の細部は無視して、サムネイルというか台割を描いています。この習慣も工場時代、1990年代の初頭から変わりません。

パソコンに向かって唸りながら…という方法もありますが、なんでしょうね?場所が変わるのが良いのか、あるいはボードの前で大きく手を動かすのがいのか、ホワイトボードを相手にした「ひとり会議」が、私の場合は最も効率的です。
このボードのプリントが出来てしまえば、その作業の半分か1/3は出来たも同然。あとはパソコンに向かってのチカラ仕事と清書…と考えています。

写真は当社のホワイトボード(内田洋行の「書撮りくんmini」)。起業直前に勤めていた精密機械メーカーの会議室にあったのと同じもので、非常にコンパクトながらリーダーが左右に移動しながらプリントされる便利さに惚れて、辞めた会社に電話して型番を聞き出して買ってしまった(笑)。

第20回−「『ぴあ』の時代」とプルの時代

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3月のLA出張中、ホテルや空港で「『ぴあ』の時代」(キネ旬総研エンタメ叢書)を読んだ。雑誌「ぴあ」には本当にお世話になったので、刊行を知り「時間があれば読んでみたい」と思っていたのだ。
出張先のホテルでの就寝前やチェックイン後の空港など、読書にはうってつけの時間である。しかしアメリカ西海岸で読んでいるのが、1970年代の"熱い"東京というのが不思議でもあるが。

内容は中央大学4年生の矢内廣が、同大学の映画研究会の仲間を中心に、"映画・演劇・音楽の総合ガイド誌"「ぴあ」を創刊するまでの物語と、自主製作映画のコンペティション「PFF」(ぴあフィルム・フェスティバル)の創設、そして2011年の休刊まで…と言いたいところだが、文章は1990年前後、つまり昭和の終焉で幕を閉じている。著者の掛尾良夫 (元「キネマ旬報」編集長)曰く、「昭和の最後の20年こそがぴあという会社の少年時代である、ここに登場する仲間たちや私が、最も楽しく活気に満ちた時代をすごした日々だったから」だそうだ。

「仲間たちや私が、最も楽しく活気に満ちた時代をすごした日々」と衒(てら)いもなく書かれると少々面食らうが、確かにあの頃、この私も「ぴあ」を片手に東京を闊歩していた。

神奈川県逗子市に住んでいた私は、1984年に高校を卒業するまでは音楽も映画も、横浜を中心に楽しんでいたが、'84年4月に代々木ゼミナールに入学すると「東京のガイドブック」が欲しくなる。それ以降は15年間以上、毎号買っていたと思う。
浪人時代はたまに映画を観るくらいで当然「フル活用」とはならなかったが、二浪を経て'86年4月に都内の私大に入学すると、まさに"映画・演劇・音楽の総合ガイド誌"として、次号が出る2週間のあいだに、ボロボロになるまで使い倒した。映画・演劇・音楽に限らず、美術展にも行き、プロ野球などにも行くと、「今週は『ぴあ』完全制覇だ」などと思ったものだ。

しかし私は、ぴあを創刊した矢内や、著者の掛尾とはほぼひとまわり下の世代なので、ネットの隆盛と「ぴあ」の関係、そして「ぴあ」休刊で何が変わるのかが気になる。

ひとことで言えば「プルの時代」への変化だろう。どういうことか?

大学生から若手サラリーマン時代、「ぴあ」を熱心に読んでいた頃は、ページをぱらぱらとめくっていた。あたりまえのように聴こえるが、この「ぱらぱら」が重要だと思う。
例えば映画のコーナーにはメジャーなロードショー作品、二番館、三番館情報、名画座での旧作上映に続けて、「定期上映館」の情報があった。これは商業的な映画館ではないが、いつも自主上映を行っている場所(レンタルスペースやアートスペースの類)で、最初はサッと目を通すだけで、さして気に留めなかった。
ところが毎号毎号目を通しているうちに、毎号毎号同じ映画を上映している場所があることに気がついた。しかも良く読むとタイトルだけ知っていて、「一体どんな映画なんだろう?」と思っていたジャン・コクトーの『詩人の血』(1930)などをやっている。「通勤途中で毎日見かける人が好きになる」ではないが、1年に数十回も上映情報を見せられれば、「ひとつ行ってみようか?」という気にもなってくる。

それは新宿厚生年金会館の裏にあった「アートシアター新宿」という自主上映スペースで、「ひとつ行ってみた」のは大学入学直前の1986年3月3日。『詩人の血』のほか、マン・レイの『ひとで』('28)や、有名なルイス・ブニュエルの『アンダルシアの犬』('28)なども同時上映で観ている。戦前のアートフィルム6本立てで、終映は夜8時頃だった。
「映画終わったので帰る。夕食は家で食べる」と公衆電話から実家に連絡したことを覚えている。浪人時代はこんなことは出来なかったので、「大学受かってよかった」という実感と供に。

「ぴあ」終焉の理由は「同様の情報がネット上に無料で溢れているから」にほかならないが、「ネット上に無料で溢れている」比較的プル型の映画・音楽情報を見ることと、「ぴあ」のページでいつも目にしていたある種プッシュ型の情報を見ることは、同じ情報体験なのだろうか?という疑問がある。

例えば実家にある親の本棚の本を妙に覚えているように、そして自分が成人してから、ふとその本を思い出して読んでみたくなるように、「なぜかそこにあった情報」「当初は自分には向けられていなかった情報」というのも重要なのではないかという気がする。

しかししかし、さらにその次を考える必要があるのだろう。たったいま書いた、「ネット上に無料で溢れている比較的プル型の映画・音楽情報」が本当にプル型なのかということだ。
確かに入口は自分の興味から検索した結果かもしれないが、リンクを辿るうちに意外なモノに辿りついて…ということもある。完全にはプル型とは言えないと思い、あえて「比較的プル型の」と書いた。

「ぴあ」の時代の情報と、21世紀初頭の情報環境を、きっちりと比較するのはなかなか大変な作業である。

第19回−あっと言う間の20年間…に注意!

「光ファイバなんて、これからのビジネスで良いですね」とよく言われる。ところがこれがトンデモない間違いで、ある意味、「もう終わっている」ビジネスなのである。

大学卒業後に新卒で大手電線メーカーに就職。リクルートでWebプロデューサーをやっていた時期を除いて、20年以上光ファイバ関連の仕事に就いているので「自分にはこれしかない」と割り切って働いているが、正直なところ本当に厳しい状況である。

わずか数年の間にコモディティ化、寡占化が進み、「選択と集中」が最も激しい業界のひとつである。そしてその苦境が業界外に伝わっていないのも問題かもしれない。
現実に三菱電線、沖電線など大手が2000年以降に相次いで汎用の通信用光ファイバから撤退。他に吸収・合併、事業撤退の話も多く業界全体の課題はズバリ「生き残り」である。

まずはいくつかの誤解を解いておかなければならない。レーザ商用化は1961年(米国での眼科治療用途)、世界初の通信用光ファイバケーブルが敷設されたのは1974年(古河電工千葉事業所内)。実はすでに半世紀の歴史がある「枯れた技術」なのだ。昨日今日に出てきたテクノロジーではない。

情報通信系で電子技術が光に置き換えられ、普及・成長したのは確かに1990年代半ばから末だった。WDM(Wavelength Division Multiplexing:波長分割多重)通信と呼ばれる1本の光ファイバに何波ものレーザ光を通す技術や、EDFA(Erbium Doped Fiber Amplifier)というレーザ光を一旦電気に置き換えることなく光のままで増幅・中継する技術の出現がその背景だが、専門的になるのでここでは詳説しない。

市中の通信用光ファイバケーブルについて言えば、もちろん一定量の張り替えや新設はあるが、様々な技術革新(デジタルコヒーレント光送受信技術など)により2000年前後に敷設された光ファイバケーブルで「かなりのところ(年数)までひっぱれるだろう」というのが業界内の大方の読みである。

最も大事なのは、光ファイバが「これからのビジネス」と言われてからすでに15〜20年が経過しているのに、現在40〜50代のビジネスパーソンがこの15〜20年、つまり1990年代から2010年代の時間経過を「見失い」かけているのではないかということだ。

自己弁護めくが、「40〜50代のオッサンは流行にもニブく、感覚が麻痺しているからだ」と責めることは出来ないかもしれない。
下図は1995年から2014年までの光ファイバケーブルの国内需要量(単位:千km/年度)だが、この通り、1990年代の半ばから数えてももう17年間が経っている。

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17年間…1964(昭和39)年から1981(昭和56)年と同じ時間経過である。ひとことで言うと「東京オリンピックから大阪万博を経てスペースシャトル打ち上げまで」だ。「井沢八郎『ああ上野駅』、ザ・ピーナッツ『ウナ・セラ・ディ東京』から、松田聖子『白いパラソル』、矢野顕子『花咲小紅』まで」と言い換えてもいい。みなさんもこの17年間に起こったことを思い出すと、感慨深いものがあるだろう。

しかし同じ17年間でも、1995年から2012年はどうだろう? 例えば1995年のテレビ番組、「王様のレストラン」や「世界ウルルン滞在記」など(近年まで続いていたせいもあるが)不思議とそれほど古い感じはしない。この年にCMから流行した「私、脱いでもスゴイんです」など、うっかり今でも使ってしまいそうだ。

社会の変化、パラダイムの変化が乏しいのだ。高度成長期からオイルショックを経てバブル経済の初期に至る1964年から1981年と比べ、1995年から2012年は「細部は異なるが根幹は同じ」という気がする。一種の社会のサチレーションだ。1995年ならばインターネットも携帯も既に使われていたし、パソコン中心の業務スタイルも確立されていた。
貨幣価値や物価も同様で、例えば大卒の初任給を比較すると1964年の2万1526円が、1981年には12万4822円。ところが1995年の19万8063円に対し、2011年は20万2495円とほとんど変化がない。物価を考えると、むしろデフレの影響で昔よりも安くなったものすらある。

そしてこの文章の冒頭に戻る。こうした「パラダイムの停滞」の中でも、経時的に変化している、すでに過去のものになっているビジネスや製品、サービスは数々ある。
パラダイムの停滞に惑わされて、うっかりと発言すると…15年前、20年前の発想でモノを言わないように注意が必要だろう。成熟化社会が生んだ現象と言えるが、ややこしい時代になったものだ。

第18回−「大流行」の入れ代わり−その2

「ある技術Xが爆発的に普及する直前に、人はその元になる技術Yを使いまくる。旧技術Yが頂点を迎えると、かなり高い確率でそれに置き換わる−もっとスマートで、もっと高性能な−新技術Xが登場する可能性が高い」の2回目、前回お伝えした「ずっと気になっていたもの」とはアマチュア無線と携帯電話の遷移である。アマチュア無線といえばかつては「キング・オブ・ホビー−趣味の王様」と呼ばれ、小学生から大人まで、非常に人気の高い趣味だったが…。

携帯電話もインターネットもない時代、大人世代にとっては自動車運転中のコミニケーションツールにもなり、また冷戦時代、国際電話料金が高額だった時代に海外と交信出来る貴重なツールでもあった。さらに学生にとっては、自宅玄関に「黒電話」が一台という時代に、自分の部屋にある無線機はまさに夢の入口(?)。

しかしいまのようにケータイが異常なほどに普及し、海外の情報もインターネットで見放題となると、「いまさらハム?!」という気がして来る。その入れ代わりはどうだったのか?

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◆最初の増加は試験制度の変更か?

なんとも不思議な遷移であった。1985年頃から'95年頃までの約10年間、携帯電話に先行すること3、4年のハム人口急増があった。増加カーブの変化は1980年頃から見られるが、これは年に2回、国が直轄で行っていた国家試験が、財団法人の国家試験センターに移管され、多いときは毎週実施されていたことによる。

◆そしてピークへ

しかし、その次の急峻な上昇は試験制度の変更だけが理由ではないだろう。よく「映画『私をスキーに連れてって』がハム急増のきっかけ」と言われるが、同作品は1987年11月の公開。確かに影響はあったと思うが、ピークに向けての急峻なカーブはその3、4年前からはじまっている。

'88年度末に242,888契約、同年のハム人口の約1/4にすぎなかった携帯(PHS含む)電話はわずか2、3年で急増、オレンジ色の破線付近、1990年にハム人口を抜いている。
面白いのはハムがその後も順調に増え続けたことで、「昭和の趣味」という印象もある日本のアマチュア無線局がピークを迎えたのは1990年代半ば、1994年(平成6年)であった。もっとも同年の携帯電話契約者数は433,1369、ハム人口の3倍以上に膨れ上がっていたが。

つまり1990年代の前半数年はハムと携帯が「共存(共栄?)」していた貴重な時代といえる。日本人の「話したい!」欲が高まりを見せていたのか?さて…?

◆衰退の実状

実は私自身が熱心なハムで、ほぼ30年間のブランクを経て2009年に「再開局」した。開局は中学1年、1978年のことである(グラフ中の変なイラストの頃)。上記の130万局を超えるピーク期は丁度「閉局」していたので、どのような盛り上がりだったのかはうっすらとしかわからない。

「趣味は最近再開したハム」と人に言うと、「えー!ハムなんてまだあるんですか?!」と驚かれるが、実は2011年時点のハム人口約45万局は私が開局した1978年頃(約36万局)よりも多い。グラフ中の青い破線である。

これは実に不思議な気がする。1970年代後半といえば、世代を問わずハムは人気の趣味。雑誌や書籍も多数出版され、無線機・アンテナメーカーも数多く存在し、「ハム市場」は十分に回っていたように思う。ところがいまや雑誌も無線機メーカーも風前のトモシビ…。

これは「増加傾向の45万か、減少傾向の45万か」の違いだろう。買い換え、買い足し需要もあるにはあるが、やはり新規開局あっての「ハム市場」。私の専門分野になるが、情報通信関係の市場調査ではある時点での加入者絶対数ではなく、前年比の「純増数」で市場を考える。右肩下がりになっている市場はパイがあっても現金は動かず、サビシい〜空気が漂うものだ。

ちなみに2010年時点ではハム47万に対し携帯1億2300万。実に260倍と比べ物にならない。

第17回−「大流行」の入れ代わり−その1

非常にマーケティング的な内容で、社会人になる前、学生時代から気になっていたことがある。「あれほど流行っていた**は、いったいどこへ行ってしまったのか?」というヤツだ。

例えば「ピッチ」(PHS)や「ポケベル」など、爆発的に流行したものがある日突然パタっと消えてなくなる。そしてそれに代わって、ナニカが台頭する。

私は技術マーケティングが専門なので、こうした世代交代を技術遷移の視点から見ている。そしてそれは死ぬほど面白い!

「隆盛を誇った日本映画も、テレビの台頭に圧されて失速し…」もう何万回と語られたフレーズで、私自身も映画関係の原稿で何回も使った(笑)。こうした”イメージ”は幅広く定着しており、確かにそうだったのだろう。では、それはいつで、どれくらいのインパクトだったのか?

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上図が1957(昭和32)年から1980(昭和50)年までの邦画/洋画公開本数と白黒/カラーテレビの普及率を2軸グラフ化したものである。映画公開本数は一般社団法人日本映画製作者連盟から、テレビの普及率は内閣府の消費動向調査からすぐに見つかる。Excelに数字を流し込んで、30分くらいで作ってみた。

興味深いのは映画公開本数(洋邦合計、水色の線)がピークを迎えた1961年から1962年の急落、そしてそれに入れ代わる白黒テレビ普及率の急上昇だ。このグラフを見ると、1962年をターニングポイントとして、1961年の映画のピーク764本から、1963年の白黒テレビ普及率88.7%に人々が「飛び移った」ようにも見える。この普及の裏には1964年の東京オリンピックがあったことは言うまでもない。

洋画の公開本数は引き続き緩く上昇しているが、邦画の公開本数(≒製作本数)に対するインパクトが大きく、1960年の547本からわずか4年で37%減の344本に縮小していることがわかる。
大映の倒産、日活のロマンポルノ転向で日本の映画産業が斜陽と言われたのは1971年11月のこと。前年比30%も急落した1962年には黒澤明の傑作『椿三十郎』や小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』、かのクレイジー映画の第一作『ニッポン無責任時代』などが封切られているので「まだまだ黄金期なのでは?」と不思議な感じもするが、数字上はここで一旦低迷期があったようだ。

そしていま書いた1970年代初頭、日本の映画大手にとてつもない打撃を与えたのがカラーテレビの普及であったこともこのグラフからよくわかる。1970年には大阪万博があり、'72年には札幌オリンピックがあった。 1967、68年から1975年頃に起こった白黒/カラーテレビの買い換えグラフは見事なまでだが、若干の山谷こそあれ、映画公開本数も白黒テレビ同様にカラーテレビに駆逐された状況が見てとれる。

最も興味があるのが「ある技術Xが爆発的に普及する直前に、人はその元になる技術Yを使いまくる」ということだ。逆に言うと、旧技術Yが頂点を迎えると、かなり高い確率でそれに置き換わる−もっとスマートで、もっと高性能な−新技術Xが登場する…可能性が高い、ということになる。

例えばいまのインターネットやスマホもいつかそのような「旧技術」になる日が来るかもしれない。いや、個々のアプリケーションで言えば既に「mixiとツイッター」などでその世代交代は起こっているように思う。

この昭和な分析(?)、次回にあとひとつ、ずっと気になっていたものを検証したい。

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