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BLOG | コンサルタントは地獄の道づれ?

第74回-「変えてみました」の危険性

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もう20年以上前になるが、電線メーカーの御社で営業データの分析を担当していた頃に、ほとほと悩まされた、いや「邪魔されでブチ切れた」のが外注SEの「変えてみました」であった。どういうことか?

ある条件で全国の営業データを集計しようとする。ホストマシンへのアクセス権は事業部の社員にはなかったので、システム部門へ。システム部門は実務を外注のSEへ。
ところが予定していた通りのデータが出てこないのである。「こんなデータは頼んでいない」というと「こっちの方がイイと思ってワタシの考えで変えてみました」…なぜ変える? 事前に出した条件は事業部サイドの複数の人間で、対象製品や設計の特徴まで考慮して決めた複雑なもの。それをなぜ「こっちの方がイイ」と思えるのか? なぜ勝手に変えて、平気なカオをしているのか?

当然そんなデータ使えるワケもなく、最初からやり直し。条件は数日前に依頼した当初の条件のママである。時間と労力のムダ。いま思い出してもハラが立ってくる。

ところがこの種の「ワタシの判断で変えてみました」-要するに言った通りに作業をしない人種はかなりいる。いまでもいる。あちこちにいる。
しかも事前に「こう変えた方が良い」と提案してくるならともなく、全てをやり終えてから、アウトプットと同時に「変えてみました」。この神経がわからない。

可逆性のあるもの、再試行に余裕のあるものならばまだマシだが、不可逆的でしかも時間のないものならば…これはもう性格のようなものなのだろうか。他人に仕事を頼むときは要注意…という事例だろう。

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第73回-未来は延長線上にしかない?

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「結局こういう仕事になってしまったなぁ」という観がある。そしてなるべくしてなり、もうやり直せない、やり直すつもりもないという気もしている。

今の仕事はメタル(主に銅線)と光ファイバの電線に関する仕事、その周辺デバイス、機器に関する仕事が8割、映画と音楽に関する仕事が2割くらい。この比率は起業以来もう15年以上ほとんど変わっていない。

そしてこの電気と通信、音楽と映画に対する興味は小学校入学頃に始まり、親が安心する堅実な方=電線と情報通信関係が「本業」になり、映画と音楽はどちらかと言えば「副業」になっている。
実は大学受験の時に、映画学科の理論・評論コースを受験したが二次試験で落ちてしまい、普通の大学の経営学部経営学科に進みマーケティングを専攻、電線メーカーに就職し、リクルートを経て光デバイス関係の会社に転職ののち独立、結果的にそれまでの経験をごちゃまぜにした会社をやることになった、というのが実態なのだ。いや、こんな経歴でも一応仕事になり、会社になり、15年以上も続いて家族も養えているのだから不思議と言うか、ありがたいと言うか。

ここで考えるのが冒頭で書いた「もうやり直せない、やり直すつもりもない」だ。例えば今からアパレルや飲食、スポーツ関係や印刷関係などに転職することなどあり得ないだろう(←業界は縁のなさそうなところを適当に書いています)。理由は簡単、今までのストーリーと無縁だからだ。

これは個人の職業観の違いだと思うが、見事なくらいに無関係な業種間をジョブ・ホッピングしている人もいる。多分、何らかのポイントがあって転職先を選び、異業種転職を行っているのだと思うが、私はそのようなことは行わないし、「行えない」とも考えている。

なにしろ…今の仕事では、なんと小中学校時代の記憶や経験が役立つのだ。小学校時代に作ったラジオやアンテナのこと、中学校時代に覚えた真空管の知識、なんと小学校入学前に聴いた音楽経験まで「引き出し」として有効に活用している。そもそもそんな電気や通信、ものづくりに関する興味は母親の実家が都内の町工場だったことに起因する。本当に本当に、根っこに染みついたものなのだ。
他の業種に移っても、多少は経験が生きるかもしれないが、今の仕事-電線・通信と音楽・映画-ほどはガッツリと噛み合わないのではないか。

「天職」と言うほど大層なものではないが、表題の通り、ある人の未来は延長線上にしかないのではないか。50代中盤に近づくにつれて、そんなことを考えている。仕事とその人の生きざま、経験の関係。考えれば考えるほど不思議である。私の場合はただ単に不器用なだけかもしれないが…。

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第72回-見えない社員

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かつてこのブログに「『年間売上1200万円』と『年収1200万円』はこんなに異なる」というサラリーマンには「見えない経費」のことを書いた。2013年9月のことだ。

会社というのは不思議なところで、色々と「見えない」ものがある。社員についても同様で、「見えない社員」というのが存在する。マネージャークラス以上の方なら誰でも御存知の、「社員の家族」のことだ。

「5人のベンチャーと行っても妻帯者がいれば10人、子供がいれば15人の人生がその会社にかかっている。50人もいればそんな"見えない社員"は100人以上。その会社の経営の成否を決めるのが社長のマネージメントだと思うと、責任重大で身が引き締まってくる」-10年以上前に大手製造メーカーの総務から社員を引き連れてスピンアウトし、中堅メーカーとして成功した社長さんから伺った。先端技術にも素晴らしい知見を有する方だったが、さすがは元総務畑という目線である。

当時の当社は業務委託形式で男性3名、女性3名程度。「昔から親しい5、6人規模の会社ならば、和気藹々とやっていればどうにかなるだろう」と考えていたが、この社長さんの言葉には緊張した。特に私以外の男性2名はいずれも妻帯者で、うち1名は「長男は小学生、もうじき長女が誕生する」というタイミングだった。業務委託とは言うものの、聴けば収入の多くは当社からの委託料で、もうじき生まれる長女の出産費用はほぼ当社からの報酬が充てられるようだった。責任重大!

意外にも(?)こうした家族主義的な社員の扱いについては米国企業の方が長けており、5年以上嘱託で勤務していた外資系メーカーは、定期的に家族を招いてのガーデンパーティーなどをやっていた。
新卒で入った財閥系の電線メーカーも、遙か昔は家族連れで参加する「臨海まつり」をやっていて、私も入社早々フランクフルトの屋台をやった記憶があるが、その後十数年間は全く何もなかったなぁ…。

報酬、キャッシュという現実的な話もあれば、いまは社員とその家族のメンタルという精神的な問題も避けて通れない。金銭面と同時に、現代のマネージャー、経営者は精神面に於いても、大げさに言えば社員のココロとイノチも、全力を尽くして守り通さなければならない。

意外にもこれを実感していない経営者は多く「クラッシャー上司」による社員の精神崩壊、失踪や自殺が相次いでいるのは報道されている通り。
そんな社員にも父がおり母がおり、妻や子供のいる者もいる。その人たちの顔が浮かぶ人、浮かばない人…経営者には両方のタイプがいるようだ。

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第71回-マネージャーの卓越

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前回は吉野屋の元社長、安部修仁氏のことを書いた。その続きのようになるが、再びマネージャー論である。

仕事で伝説的プロモーター永島達司氏のことを調べた。永島氏は現・キョードー東京の創設者で「ビートルズを呼んだ男」として知られる。音楽的な偉業は私が並行して書いている別のブログに譲るが、ここでは卓越すたマネージャーとしての才能について2つほど記したい。

まずはなぜ氏が伝説的プロモーターになり得たか。氏の父親である永島忠雄は東大法科卒業後に三菱合資入社、三菱銀行取締役を経て三菱海運の社長を務めた。そのため達司氏は2歳から15歳までをニューヨークとロンドンで過ごす。そんな氏の英語は完璧で、きわめて上品な発音であったそうだ。早大在学中にジョンソン基地・将校クラブの支配人を務め、「外タレ」を招聘するプロモーター、当時の言葉でいう「呼び屋」の道に。

昭和30年前後の混沌とした時代のことではあったが、「英語が出来て音楽に詳しい」という自らの能力を、見事なまでにビジネスに繋げたその行動力と先見性は素晴らしいと思う。
たったいま、「昭和30年前後の混沌とした時代のこと」と書いたが、実はこうした能力の活かし方は今でも考えられるべきではないかと思う。スタートアップベンチャーが改めて注目され、今までとは明らかに異なるビジネス・モデルが議論されている今こそ!という気がする。
自分が活躍する舞台を、自分の周囲半径XXm程度に自ら狭めて、限定していないか? 本来はその逆なのだ。自分には**の知識がある、わずかながら**語が出来る、それならばその2つを結びつけて、最大限にはじけると何が出来るか? そう考えるべきではないかと、五十歳を過ぎて改めて考えている。

どうにか実用になる英語力と光ファイバ通信に関する知識-この2つを結びつけて、東京を拠点に世界に飛び出せないだろうか…そう考えて設立した自分の会社だが、15周年を過ぎてどうもシュリンク傾向にある。「本当はこうではなかったような…」と永島達司氏の活躍を見て考えてしまった。まだまだ何回か、勝負出来るのではないか…。

第70回-マネージャーの説得力

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吉野屋の元社長、安部修仁氏は「伝説の男」とまで呼ばれるキャリアの持ち主だ。福岡の県立工業高校を卒業後、R&Bバンドでプロを目指し音楽活動と並行して吉野屋のバイトに。1971年、当時の店舗はまだわずか5店だったそうだ。

当時の社長の目にとまり正社員に。都内店の店長や九州本部長を経て取締役、社長へ…というのが一般的な紹介文だろう。

しかし私は安部氏の忘れられない姿がある。BSE問題で牛丼業界が荒れに荒れた2000年代初頭、2005年2月の1日限定の牛丼復活日だったか、2006年9月の牛丼販売再開時だったか、フラッグシップ店である有楽町店で安部社長自ら盛り付けを行う姿がテレビニュースで報道されたのだ。

いや、もう、これが、カッコイイ! シビれた!

社長就任から十余年、50代半ばに差しかかった一部上場企業の社長が、"あの"帽子をかぶり自ら盛り付け。しかもこれがなんとも軽やかで上手いのだ。
当時の私は自らの会社を起業してわずか3、4年。「社長」のスタイルに迷っている時期でもあった。そこで目にした安部社長の姿に「これだッ!」と思った。「現場作業から全てを経験しここまで来たが、やろうと思えば経験した仕事を誰よりも上手く出来る。社員に身をもって示すことが出来る。しかし今は社長なのでマネージメントに専念している。しかししかし、社員全員の仕事は経験しているし、今でも出来る」。こんな素晴らしい、いや、カッコイイ社長がいたのかと。

実はこの有楽町店、1980年に倒産した時に営業部長から店長に降格され配属された曰く付きの店舗でもあったそうだ。単なる「昔取った杵柄」では済まない、奥深い思いもあったのかもしれない。

当社は来月で創業16年、20周年に向けてのカウントダウンに入っているが、このマネージャーが社員に示すべき態度については、まだまだ思い悩むばかりだ…。

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