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商品開発 Archive

第44回-残存者利益をどう見るか?

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先日ツイッターで流れた写真で興味深いものがあった。「近所のお店が迷走している」というツイートで、写真には元は古本屋、それが写真のプリントショップになり、傍らでタバコ屋も兼ねているなんとも摩訶不思議な光景が映っていた。いや、たい焼きか何か、飲食店も兼ねていたか…。

それに対するリツイートの中で「電子書籍の時代に古本、デジカメの時代にプリントショップ、喫煙者激減の時代にタバコ屋。先のない商売を次々と見つけて来るそのセンスが不思議」というものがあった。まさにその通りだ。確かに、よくぞまぁ…。

この話をある先輩ビジネスマンの方にしたところ、違った見解が返って来た。「そのお店は残存者利益を狙っているのかもしれませんよ」。

これもまた確かに。古書店もプリントショップもタバコ屋も、昔はどこの商店街にも当たり前のようにあったが、今はすっかり少なくなってしまい、探すのが大変かもしれない。

果たしてそのお店がニッチビジネスを狙って残存者利益戦略を巧妙に仕掛けているのか、たまたまそのような寄せ集めになったのかはわからないが(後者の可能性が高いが)、ここまで時代の変化、製品やアプリケーションの交代-昔流行った言葉でいうとパラダイム・シフトというヤツか?-が激しいと、残存者利益というか、逆張りというか、あえて旧世代のビジネス、製品に出てみるのも悪くない。

その先輩ビジネスマンの方も「大企業の基幹システムは『大型汎用機で数十年前に組んだCOBOLの拡張版』という例が多く、未だにCOBOLエンジニアは必要かつ重要。でも『アタマの回転の早い若くて他言語もわかるCOBOLエンジニア』が少なくて…」と言っていた。確かに「若くてピチピチしたCOBOLエンジニア」というのは今や不思議な響きに聴こえてしまう。しかしまぁ、何十年経とうとも、必要なものは必要なのだ。

さぁ、残存者利益にあたるビジネスには何があるだろう? 渋谷に開店したHMVのアナログLP専門店もその一種かもしれないし、復活したレコード針のナガオカ・トレーディングもそうかもしれない。アイオン・オーディオ(Ion Audio)社のArchive LP([オールインワン・ターンテーブル。写真の製品)などまさにそのひとつだ。

しかししかし、この話、あまりやりすぎると懐かし物特集のテレビ番組のようになってっしまうのが玉にキズなのだが(苦笑)。

第39回-ポパイと業界誌

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いつになく更新が滞ってしまった。実は11年間使用してきた恵比寿駅裏の事務所から、恵比寿ガーデンプレイス内のビジネスセンターに移転していたためである。

11年分の荷物はさすがに膨大! 整理作業(といってもその大半は捨ててしまうのだが)に数週間かかった。しかしここ11年分、2000年代初頭から2010年代中盤までの書類や資料を毎日見ていると、色々と思うところもある。「ブログの更新が出来ないな」と思った反面、「引っ越しが終わったら、ブログ数回分のネタはあるぞ!」とも考えていた。まずはその1回目である。

さて、今回の整理作業で惜しげもなく、ごっそりと捨ててしまったものに古雑誌がある。あまりに量が多すぎて、入居していたビルの管理人から何か言われるのではないかと思った程だ。国内誌、海外誌、合わせて千部以上あっただろうか?(月刊誌12冊/年×11年×10誌でも1320部にもなる)。

分野的には2つの専門分野、光工学・光ファイバ通信関係と音楽・映画関係の両方に跨がる。また情報収集のために買った経済誌や情報誌もあった。

ところがここでハタと気付いた。3年以上前の専門誌にほとんど情報価値がないのだ。最初は「とりあえず5年以内のものは保存しておこう」と考えていた。そのうちに「量が多すぎる。3年までにしよう」となり、結局最後には「去年のものまでで良い」となってしまった。音楽・映画関係は発行年に関係なく特集の内容で判断し、「二度と開くことはないだろう」と思われるものは1年以内の発行でも廃棄した。

山積みにした古雑誌に埋もれながら、そもそも海外の、特に米国の光工学・光ファイバ通信専門誌から情報を得ることが少なくなってしまったことを痛感した。会社を設立した2001、2年頃は、まさに「米国の技術・市場動向を知る者が、日本の技術開発・市場戦略をリードする」という観があった。米国のいまが日本の1、2年後。まさにタイムマシーンを覗く感じだった。

しかしなぜか米国の、特に光ファイバ通信市場は失速。加入者に近い光ファイバ通信網(メトロ/アクセス網)に関しては、日本の技術が世界を圧倒することになった。米国での研究会報告を読んで「古いな」と感じ始めたのは、2004、5年頃だっただろうか。

専門的な技術論になるので詳細は省略するが、マーケティングの視点から見れば、草創期、揺籃期における米国のリーダーシップは強力なものがある(あった)。しかしひとたび汎用化、コモディティ化され、更に寡占化にまで至ると、極めて低廉に、高い普及率をもって市場を成熟させるのは日本の方が見事である。

もちろん一部先端技術トレンド(例えばWDM-PONやスーパーチャネル、モード多重伝送など)については、米国・欧州の動向をウォッチすべきものもある。しかしそれが即効性があり大きな売上に繋がる、1、2年後のビジネスに直結しているかというと疑問である。

そう考えると、2002年の会社設立、2003年の事務所拡大というのは、光ファイバ通信市場の「最も面白い時代」に合致していたのだな…と思えて来る。

光ファイバ通信専門誌に紛れて、密かにコレクションしていた'70年代後半の雑誌「ポパイ」(私は勝手にヴィンテージ・ポパイと呼んでいる)も出てきた。「アメリカ西海岸の大学生にライフスタイルを学ぶ-いま西海岸では」そんな特集が目白押しだ(この常套句も現在の大学生には響かないだろう)。果たして2000年代初頭の光ファイバ通信業界は、'70年代後半の若者文化のアナロジーと言えるのか? その結論はまだ出ていない。

第21回-ひとり会議のススメ

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電線工場勤務時代から20年以上続いている習慣があります。「ひとり会議」です。

工場時代は工程管理システムの仕様案のまとめや、社内外プレゼンテーションのラフ作りのため、本社勤務時代はそれこそ全ての業務のため、独立・起業後は市場調査や技術コンサルタント案件のプロジェクト立案のため、ひとりで会議室に籠もり、ブツブツ言いながらホワイトボードにアタマの中を書きなぐっています。

スマホやタブレットが普及し、電子黒板などもある今は、もっとスマートな方法があるのかもしれませんが、今日現在でもやり方は変わらず。グシャグシャの文字で書いて、プリントアウトをしています。

ポイント…というほどではありませんが、二点ほど意識していることがあります。

ひとつは「必ずプリントアウトすること」。安いボードには印刷機能が付いていませんが、ボードに書いて記録に残さず、なんとなく出来た、わかった、解決したような気になってはイケマセン。
どんなにキタナイ文字でも、後日読解に苦労するようなグシャグシャっぷりでも、「成果物」を残すことが重要かと。出張先などでプリントが出来ない場合は、一言断ってから携帯で写真を撮らせてもらっています。

もうひとつは「アウトプットのイメージをマンガに書くこと」。提案書、調査報告書、説明資料等々、「A4ヨコでパワポで、まず一枚目はこのへんに見出し、左にダァーっと文章が来て、右に写真と円グラフが2点。二枚目は…」などと、内容の細部は無視して、サムネイルというか台割を描いています。この習慣も工場時代、1990年代の初頭から変わりません。

パソコンに向かって唸りながら…という方法もありますが、なんでしょうね?場所が変わるのが良いのか、あるいはボードの前で大きく手を動かすのがいのか、ホワイトボードを相手にした「ひとり会議」が、私の場合は最も効率的です。
このボードのプリントが出来てしまえば、その作業の半分か1/3は出来たも同然。あとはパソコンに向かってのチカラ仕事と清書…と考えています。

写真は当社のホワイトボード(内田洋行の「書撮りくんmini」)。起業直前に勤めていた精密機械メーカーの会議室にあったのと同じもので、非常にコンパクトながらリーダーが左右に移動しながらプリントされる便利さに惚れて、辞めた会社に電話して型番を聞き出して買ってしまった(笑)。

第19回-あっと言う間の20年間…に注意!

「光ファイバなんて、これからのビジネスで良いですね」とよく言われる。ところがこれがトンデモない間違いで、ある意味、「もう終わっている」ビジネスなのである。

大学卒業後に新卒で大手電線メーカーに就職。リクルートでWebプロデューサーをやっていた時期を除いて、20年以上光ファイバ関連の仕事に就いているので「自分にはこれしかない」と割り切って働いているが、正直なところ本当に厳しい状況である。

わずか数年の間にコモディティ化、寡占化が進み、「選択と集中」が最も激しい業界のひとつである。そしてその苦境が業界外に伝わっていないのも問題かもしれない。
現実に三菱電線、沖電線など大手が2000年以降に相次いで汎用の通信用光ファイバから撤退。他に吸収・合併、事業撤退の話も多く業界全体の課題はズバリ「生き残り」である。

まずはいくつかの誤解を解いておかなければならない。レーザ商用化は1961年(米国での眼科治療用途)、世界初の通信用光ファイバケーブルが敷設されたのは1974年(古河電工千葉事業所内)。実はすでに半世紀の歴史がある「枯れた技術」なのだ。昨日今日に出てきたテクノロジーではない。

情報通信系で電子技術が光に置き換えられ、普及・成長したのは確かに1990年代半ばから末だった。WDM(Wavelength Division Multiplexing:波長分割多重)通信と呼ばれる1本の光ファイバに何波ものレーザ光を通す技術や、EDFA(Erbium Doped Fiber Amplifier)というレーザ光を一旦電気に置き換えることなく光のままで増幅・中継する技術の出現がその背景だが、専門的になるのでここでは詳説しない。

市中の通信用光ファイバケーブルについて言えば、もちろん一定量の張り替えや新設はあるが、様々な技術革新(デジタルコヒーレント光送受信技術など)により2000年前後に敷設された光ファイバケーブルで「かなりのところ(年数)までひっぱれるだろう」というのが業界内の大方の読みである。

最も大事なのは、光ファイバが「これからのビジネス」と言われてからすでに15~20年が経過しているのに、現在40~50代のビジネスパーソンがこの15~20年、つまり1990年代から2010年代の時間経過を「見失い」かけているのではないかということだ。

自己弁護めくが、「40~50代のオッサンは流行にもニブく、感覚が麻痺しているからだ」と責めることは出来ないかもしれない。
下図は1995年から2014年までの光ファイバケーブルの国内需要量(単位:千km/年度)だが、この通り、1990年代の半ばから数えてももう17年間が経っている。

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17年間…1964(昭和39)年から1981(昭和56)年と同じ時間経過である。ひとことで言うと「東京オリンピックから大阪万博を経てスペースシャトル打ち上げまで」だ。「井沢八郎『ああ上野駅』、ザ・ピーナッツ『ウナ・セラ・ディ東京』から、松田聖子『白いパラソル』、矢野顕子『花咲小紅』まで」と言い換えてもいい。みなさんもこの17年間に起こったことを思い出すと、感慨深いものがあるだろう。

しかし同じ17年間でも、1995年から2012年はどうだろう? 例えば1995年のテレビ番組、「王様のレストラン」や「世界ウルルン滞在記」など(近年まで続いていたせいもあるが)不思議とそれほど古い感じはしない。この年にCMから流行した「私、脱いでもスゴイんです」など、うっかり今でも使ってしまいそうだ。

社会の変化、パラダイムの変化が乏しいのだ。高度成長期からオイルショックを経てバブル経済の初期に至る1964年から1981年と比べ、1995年から2012年は「細部は異なるが根幹は同じ」という気がする。一種の社会のサチレーションだ。1995年ならばインターネットも携帯も既に使われていたし、パソコン中心の業務スタイルも確立されていた。
貨幣価値や物価も同様で、例えば大卒の初任給を比較すると1964年の2万1526円が、1981年には12万4822円。ところが1995年の19万8063円に対し、2011年は20万2495円とほとんど変化がない。物価を考えると、むしろデフレの影響で昔よりも安くなったものすらある。

そしてこの文章の冒頭に戻る。こうした「パラダイムの停滞」の中でも、経時的に変化している、すでに過去のものになっているビジネスや製品、サービスは数々ある。
パラダイムの停滞に惑わされて、うっかりと発言すると…15年前、20年前の発想でモノを言わないように注意が必要だろう。成熟化社会が生んだ現象と言えるが、ややこしい時代になったものだ。

第18回-「大流行」の入れ代わり-その2

「ある技術Xが爆発的に普及する直前に、人はその元になる技術Yを使いまくる。旧技術Yが頂点を迎えると、かなり高い確率でそれに置き換わる-もっとスマートで、もっと高性能な-新技術Xが登場する可能性が高い」の2回目、前回お伝えした「ずっと気になっていたもの」とはアマチュア無線と携帯電話の遷移である。アマチュア無線といえばかつては「キング・オブ・ホビー-趣味の王様」と呼ばれ、小学生から大人まで、非常に人気の高い趣味だったが…。

携帯電話もインターネットもない時代、大人世代にとっては自動車運転中のコミニケーションツールにもなり、また冷戦時代、国際電話料金が高額だった時代に海外と交信出来る貴重なツールでもあった。さらに学生にとっては、自宅玄関に「黒電話」が一台という時代に、自分の部屋にある無線機はまさに夢の入口(?)。

しかしいまのようにケータイが異常なほどに普及し、海外の情報もインターネットで見放題となると、「いまさらハム?!」という気がして来る。その入れ代わりはどうだったのか?

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◆最初の増加は試験制度の変更か?

なんとも不思議な遷移であった。1985年頃から'95年頃までの約10年間、携帯電話に先行すること3、4年のハム人口急増があった。増加カーブの変化は1980年頃から見られるが、これは年に2回、国が直轄で行っていた国家試験が、財団法人の国家試験センターに移管され、多いときは毎週実施されていたことによる。

◆そしてピークへ

しかし、その次の急峻な上昇は試験制度の変更だけが理由ではないだろう。よく「映画『私をスキーに連れてって』がハム急増のきっかけ」と言われるが、同作品は1987年11月の公開。確かに影響はあったと思うが、ピークに向けての急峻なカーブはその3、4年前からはじまっている。

'88年度末に242,888契約、同年のハム人口の約1/4にすぎなかった携帯(PHS含む)電話はわずか2、3年で急増、オレンジ色の破線付近、1990年にハム人口を抜いている。
面白いのはハムがその後も順調に増え続けたことで、「昭和の趣味」という印象もある日本のアマチュア無線局がピークを迎えたのは1990年代半ば、1994年(平成6年)であった。もっとも同年の携帯電話契約者数は433,1369、ハム人口の3倍以上に膨れ上がっていたが。

つまり1990年代の前半数年はハムと携帯が「共存(共栄?)」していた貴重な時代といえる。日本人の「話したい!」欲が高まりを見せていたのか?さて…?

◆衰退の実状

実は私自身が熱心なハムで、ほぼ30年間のブランクを経て2009年に「再開局」した。開局は中学1年、1978年のことである(グラフ中の変なイラストの頃)。上記の130万局を超えるピーク期は丁度「閉局」していたので、どのような盛り上がりだったのかはうっすらとしかわからない。

「趣味は最近再開したハム」と人に言うと、「えー!ハムなんてまだあるんですか?!」と驚かれるが、実は2011年時点のハム人口約45万局は私が開局した1978年頃(約36万局)よりも多い。グラフ中の青い破線である。

これは実に不思議な気がする。1970年代後半といえば、世代を問わずハムは人気の趣味。雑誌や書籍も多数出版され、無線機・アンテナメーカーも数多く存在し、「ハム市場」は十分に回っていたように思う。ところがいまや雑誌も無線機メーカーも風前のトモシビ…。

これは「増加傾向の45万か、減少傾向の45万か」の違いだろう。買い換え、買い足し需要もあるにはあるが、やはり新規開局あっての「ハム市場」。私の専門分野になるが、情報通信関係の市場調査ではある時点での加入者絶対数ではなく、前年比の「純増数」で市場を考える。右肩下がりになっている市場はパイがあっても現金は動かず、サビシい~空気が漂うものだ。

ちなみに2010年時点ではハム47万に対し携帯1億2300万。実に260倍と比べ物にならない。

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