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第76回-コンサルタントであることと情報収集


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コンサルタント業をはじめて15年以上が経つが、一番難しいのはクライアント企業への「同化」と「異化」のバランスだ。これに尽きると言ってもいい。

まずは同化。当社のように光工学や電線製造といった特殊分野のコンササルタントの場合、いかにクライアント企業の技術的な系譜や企業文化に入り込んで、彼らの技術分野に合致した提案や、企業文化にマッチしたオペレーションを行うかが極めて重要である。
例えば、樹脂製光ファイバを専門とする企業に自分が得意だからといって石英ガラスの話を滔々と続けても意味はないし、代理店販売を行わない企業に代理店管理のノウハウを説いても意味はない。信じられない話だか、そんなちぐはぐな発言を続けて早々にお払い箱(契約解消)となる自称コンサルタントといいうのは少なくない。
そうならないためには「あたかもその会社の歴史と文化を理解したマーケティング担当者であるように語り、振る舞う」ことがポイントとなる。特に業務委託を受けて名刺を貰い展示会で説明員を務めたり、同行営業を行ったりする場合はなおさらである。

それではそうした同化が全てか? というとそうとも言えない。あまりに同化しすぎると、その会社の社員と100%同じ発想、思考回路になってしまい「外部コンサル」の意味がなくなってしまう。ズブズブ、ベタベタも駄目なのだ。
クライアント企業は何も社員的なマンパワーの増強を依頼して来たわけではなく、プロのマーケターによるノウハウの提供、自社にないものを期待している。「背景は理解しつつも、客観的な別の視点で」という難しさがあるのだ。

それではそのような一種の異化を狙う時はどうするか。そこがコンサルの強みでもあるのだか、積極的、意欲的に「他社」の人物と会って話すようにしている。仕事としてあることもあれば、プライベートで会話、会食の機会をセッティングすることもある。
微妙に業態の異なる企業、規模の異なる会社、時には世代の異なる人物。要するに「外の空気をガンガンに吸ってみる」のが本当に有効になる。意外にもオーセンティックバーで深夜に同席した初対面の若きシステムセンジニア(世代的には自分の子供くらいの)の話が、ものすごく刺激になったりもする。幸いにも人の何倍も酒好きで、行きつけのバーも何軒もあり、そうした「場」へのアクセスには意欲的(?)である。

こんな良い意味での浮遊感、ノマド感こそコンサルタント業の強みであり面白さだと考えている。「あたかもあなたの会社の社員のように」と「タコツボ」は全く異なるのだ。

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第68回-仕事の振り方、仕込み方

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新製品開発の仕事が多いので、基本構想から設計、市場調査、試作、量産検討などなど、非常に長いステップで仕事をしているが、痛感するのが「ここまでやって次に渡したら愕然と楽になる」という仕事の振り方、仕込み方だ。

例えば外注業者に試作品を委託する場合、ともかく徹底的に部品情報を集めて適切な設計を行い、加工図面だけではなく前処理のポイントなども書いておく。支給部材は100%キッチリ揃えて、加工方法や精度の問題なども事前に委託先と打ち合わせておく。納期も輸送手番が休日なども考慮して、日付レベルで下打合せしておく。

ここまで仕込んだら、もう出来たも同然なのだ。書類は事前に全て送付、支給部材も抜けなく発送。あとは事前に打ち合わせておいた納品日を待つだけだろう(但し信頼出来る加工業者の場合のみ)。その間に他の仕事が出来る。もっともこれは外注業者に限らず、同じ社内で仕事を次工程に渡す時も同じだろう。

設計、加工情報が曖昧なまま、或いは部材の支給が五月雨式で…これでは委託先、次工程にスッパリ渡せない。「ここはどうなっているんですか?」、「この部品はいつ届くんですか?」…いつになってもダラダラとやりとりが続き、他の仕事に移れない。進行の途中で「こんな部品だとは思わなかったんですけれど…」などと言われた日には、設計段階まで戻ってやり直しの必要まである。

実はこの設計・加工情報や部材を100%キッチリ揃えて渡すという作業、なかなかに大変でツライものでもある。しかし私は「中途半端に私でもあとでモメるだけ」と考えて、徹底的に「仕込んで」から渡している。単に心配性なだけかもしれないが…。

第53回-コラムにみる人生と人格

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もう40年くらい講読している東京新聞の夕刊に「紙つぶて」というコラムがある。女優から歌手、大学教授や作家、研究者、会社社長などさまざまな分野の著名人が半年がわりで連載をするのだが…まぁ、なんというか、玉石混淆だ。

東京新聞は中日新聞系列で、そのためなのか愛知・静岡系の人脈が多いのだが、ここのところ「この欄は白紙でいいから、そのぶん値引して欲しい」と思うような迷文を乱発する人が続いた。

例えば最高学府卒をウリにしていたある女性歌手。いろいろな時代、場面におけるご自身の経験を書いていたうちは良かったが、半年間、約25回続けるうちにネタが尽きたか、もう抽象的なココロやキモチを描く文章になって来て、何が言いたいのかサッパリわからなかった。確か私と同年齢で、もう50歳にもなろうというのに、たった25回の短いコラムも続けられないような人生だったのか?
少々キツイ言い方になってしまったが、それは"その逆"もあるからだ。こちらは実名で良いと思うが、東京新聞ではないがジャズ・ピアニストの山中千尋があちこちの媒体に書くコラムの面白いのなんの。
ちょっとした日常の出来事から極めてユニークな考察に深化して、予想もつかないような結論に達する。時には深い見識に唸らされることもある。彼女は30歳を過ぎたばかりだが、人生経験というよりも奇抜な発想や柔軟な思考があのような面白い文章を生むのだろう。この2人はあまりにも対照的だ。

またある大学関係者の連載も、現職に至る前に携わっていた地方政治に関することが繰り返し繰り返し書かれており、冒頭を見て「またこの話か」とウンザリしていた。その話が面白いならばともかく…。この人にはそれ以外の書きべきものがないのか??

この「紙つぶて」や、朝刊掲載の「本音のコラム」を読み続けると、コラム向きの人というか、面白いコラムのツボが見えてくる。
大学教授、研究者、企業人など、現在の仕事はまったく関係がない。硬軟取り混ぜて時間軸を自由自在に操り、子供の頃の失敗談から現在の国際情勢まで、手を変え品を変え、それでいて本人の視点、主張がどこかにきっちりと入っている。笑わせる、泣かせる、驚かせる、唸らせる…こう書いて行くと、「雑談の上手い人はコラムも上手い」という気がして来るが(笑)。ちょっと飛躍するが、一緒に仕事をした時の面白さなんてのも、これに比例するのではないか、とも。

さて、このブログはどうだろう…というのはコワイので考えないようにしよう。ともかく、文章というのは難しいものだ。

第51回-一国に一回のチャンス?

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先日、NHKスペシャルで「戦後70年 ニッポンの肖像 豊かさを求めて」という番組をやっていた。1945年の敗戦から今日までを、経済動向で振り返るというので観てみたが、内容的には2年前にこのブログに書いた内容とほぼ同様だった。そりゃまぁ、経済成長率の変化は定量的な既成事実なので、どうやっても同じになるだろう。朝鮮特需、オイルショックなどの外因も同じ。

ブログに書かなかった内容では「人口ボーナス」の概念があり、そしてこれが面白かった。
これは金融・経済用語で「人口学的ボーナス」、英語ではdemographic bonusとも呼ばれる。他のサイトを参考にまとめると-

1.労働力増加率が人口増加率よりも高くなることにより、経済成長が後押しされる。

2.人口構成の変化が経済成長にプラスの影響を与える状態。子どもと高齢者の数に比べて、働く世代(生産年齢人口:15~64歳)の割合が増えていくことによって経済成長が後押しされる状態。

3.都市化の進展、工業化による所得増、消費活発化による高い経済成長率を実現する潜在能力があり、「若い国」と呼ばれる。

4.教育・医療・年金などの社会福祉の負担が少ない一方で、税収が増えて財政負担が軽くなり、インフラ整備や税制優遇に資金を回しやすく、その結果、産業の国際競争力が強くなり、内需も拡大することが多い。


-この通り、いいことづくめだ。そして番組では、「ある国が人口ボーナスの恩恵を被るのは一回だけ」と言っていた。それが1960年代を中心とした高度経済成長期の特徴でもあったというわけだ。

そういわれてもな…。この時代に日本が人口ボーナス状態にあったのは、まず直前の第二次世界大戦での戦死者、被災者、出征者の影響。そしてその後のベビーブームの影響が重なったものだろう。再度の人口ボーナスに期待するのは困難かつ危険でもある。

この通り、国単位のマクロレベルでみても、「あの頃のニッポン」なんて取り戻せやしないのだ。むしろその時代の経験を元に、いままさに人口ボーナス状態にある新興国への支援や指導に注力すべきだろう。

私が新卒の就職活動をしていた1989年頃、出始めの"ハイテク・ベンチャー"企業が「ソニーだって創業時は今の当社より小さかった。あと20年、30年経ったら当社も!」と熱心に大学生を呼び込んでいたが、私は全く興味がなかった、というかそう語る人事担当者に苦笑し、受け売りする同級生を窘めていた。ソニーが過ごした30年と、1989年からの30年-まさに失われた20年である-とは全く時代背景が異なるのだ。なぜそこを考えない?

この人口ボーナスの件ひとつとっても、それは明確かつ強固に理解出来る。景気や企業経営を見る目は、冷静さが重要、ということか…。

第50回-がんばるということ

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東京生まれである。品川区で生まれて幼少期は大田区。その後湘南に移り、ここ20年はまた品川区や渋谷区に住む。どうもこれは土地の風土(?)なのか、「がんばる」ということを表に出したくない性分がある。照れというか、見栄というか…「粋じゃない」のだ。

しかしニンゲン、全くがんばらずに歳を重ねることなど-資産家の跡取りでもない限り-出来るはずがなく、こんな私でも、「割り切って、がんばった」記憶が二回ほどある。そしてその割り切りの瞬間のことを、なぜか鮮明に覚えている。

一回目は大学2年、当時はあまり一般的ではなかった「ダブルスクール」を覚悟して、本格的に英語を勉強しようと思った時だ。大学が終わってから、月曜日は英会話学校に、水曜日はTOEICの専門学校に、その他の曜日は大学の国際センターに。
文科系大学の2、3年と言えば授業数も減り、まさに「遊び盛り」のはずだが、私はそもそも二浪しており、しかも志望校でもなんでもない滑り止めの三流大学だったので、「ここで英語くらいやっておかないと、きっと就職で苦労する。いつかは苦労するならば、余裕のある今のうちに」と、通学途中の山手線の中でフッと割り切った。品川-大崎間、「カツマタデンキ」の横を通過しているときだったことまで鮮明に思えている。

これは私のジンセイにおいて、本当に貴重な「賢明な判断」だったと言える。これから2年間の成果も手伝って、就職は第一志望の大手電線メーカーに。ほとんどの事象を「あとでイイヤ」、「テキトーにやって、あとはサボろう」という習性のある(そもそもそれで二浪した)私が、ほぼ唯一、先を見越して決断、実行したものと言える。あの決断、あの一瞬がなければ今の仕事も、海外との付き合いもなかったかもしれない…。

二回目は電線メーカ入社6、7年目のこと、工場の製造現場、品質保証部が業務に使用するプログラムを自分で作成しようと"がんばった"時だ。
実はこれには前章がある。当時、業務改善の専任チームにいたのだが、「プログラムぐらい、どうにかなるだろう」と経験のない言語にもかかわらず、安請け合いしてしまったのだ。ところがやはり出来ない。迫る納期(本当にヤバくなったら「ごめんなさい」してシステム部に有償で発注しようかと目論んでいた)。

そんな中、他工程に行き参考にある検査用プログラムを見せてもらった。内容は違うが、動作のイメージはまさに私が作ろうとして出来なかったものだった。誰が作ったのかと尋ねると、なんと品質保証が専門の先輩社員。「プログラミングなんて知らなかったけど、本を買って、読みながら組んでみた」。
その一言に"いい意味で"ショクを受け、一念発起した。その先輩は元々専門分野では一目置かれる「デキる」人だったが、それほどの人でも、わからなかったら本を買って、イチから勉強してどうにか自作するのだ。イカン! チョコチョコやって「出来ねぇ~!」とか言ってる場合じゃない。

その見学が金曜日で、その足で本を買って、土日に家のパソコンで試しに組んでみた。初夏だったと思う。ベランダのそば、網戸の前にある自宅のパソコンで、簡単なプログラムを組んで、パタパタと動いた時の感動はまだ覚えている。
プログラムというのは飛行機の操縦に似ており、ある規模のものが出来ると、継ぎ足し継ぎ足しして巨大なものにして行くことが可能なのだ。結構複雑なシステムが納期ギリギリに無事完成。大きなトラブルもなく、それからしばらくの間、私の組んだプログラムで数十人の社員が毎日検査や出荷を行っていた。

一回目も二回目も、要は「割り切り」なのだということを痛感する。そりゃニンゲン、遊びたい、食べたい、呑みたい、眠りたいしサボリたい。しかし、「いや、ここは手を抜かずに、集中して、ひとがんばり」と割り切れるかどうか。

しかし、それこそ小学校前の「お受験」の頃から、絶えずそういう判断をして、エリートコースを歩んでいるヒトもいるんだよなぁ。デキねぇナァ~! 俺には出来ない!(と思いつつもう50歳…)

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