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第65回-残業世代

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なんともヘンなタイトルになったが、いま話題の(?)残業&時間外労働について。

私の世代、昭和40年=1960年代中盤生まれで二浪を経て1990年=平成2年の"バブル入社"組は、実に宜しくない皮膚感覚というか、メンタリティを持っている。うっかり残業をしてしまうのである。

昭和末期から平成初頭のバブル入社組は、タナボタだの苦労知らずだのとあまり良いことを言われないが、実は業種によっては入社から数年間、筆舌に尽くしがたい程の苦労をしている。仕事量が膨大でいまの過労死ラインの数倍に及ぶ超過勤務をしているのである。

例えば私は入社早々、工場で月間275時間の時間外労働を経験している。当時の仕事は光ファイバケーブルと端末加工の生産管理だった。
計算が合わないように思うかもしれないが、当時の勤務パターンは「日曜日の午後に実家から出社してほぼ徹夜で連続勤務。独身寮に戻るのは木曜日の明け方。木曜も定時出社して木金も半徹夜。土曜も休日出勤して土曜の夜に実家に」だった。私だけが異常に仕事が遅かったわけではない。男性課員は全員こんなものだった。バブル景気とは単にディスコで遊んでいるだけではなかったのだ。

1991年の金融&土地バブル崩壊で一旦鎮静化するが、面倒なことに約10年後の1999年頃、今度はITバブルが到来する。ブロードバンドなるものが世に出た頃。当時は丸の内の本社におり、光ファイバ製造工場の設備投資とマーケティング、操業管理を担当していた。
勤務形態は似たようなものだったが、それは天下の丸の内勤務。深夜2、3時まで働いてタクシーで品川区内の自宅マンションに。一緒に残業している後輩社員を誘って途中の西麻布あたりでたらふく飲み食いしていた。この頃になるとフレックス制度も導入されており、4時頃に眠ればギリギリ翌朝10時出社に間に合った。当時は概ね200時間くらいの超過勤務だったと思う。

ちなみに工場時代も本社時代も、残業代は上限40時間で切られていた。残りはサービス残業となり、法的に言えば「賃金未払い」なのだが、当時は「まぁ仕方ない。仕事が片づかないよりはマシ」と考えていた(ちなみに2000年の退社から5年後の2005年10月、労基署の監査が入り間接社員約1700人のサービス残業が露呈。未払い賃金計約14億2000万円を支払う羽目になった。サービス残業時間は合計で68万7000時間。1人あたりの平均未払い額は約80万円強と言われたが、年収以上を2カ月に分けて受け取った研究開発者もいたそうだ)。

さてさて、新卒入社から10年以上、こんな「育ち」をしてしまうと、「本当は帰ってもいいんだよ。定時まで働けば十分立派なサラリーマンなんだよ」とアタマでは理解しても、見えないナニカが働いて残業してしまう。いまやいけないことなのだろうが。特に私は2002年の起業後に「労働量と収入が比例する賃金体系」にいるので、なおさらその傾向が強い。

「長時間労働が正しい」というつもりはもちろんないが、「もう一歩踏み込んで調べたい。まとめたい」と考えると、どうしても8時、9時、10時…となってしまうのだ。

私ももう50代初頭になったが、この感覚、もしかしたら死ぬまで抜けないのだろうか…(そんなジンセイ嫌だなぁ…)。
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